シンクロニシティ・マネジメント 堀内恭隆 公式ブログ

インスピレーション力®で「望む未来」を「偶然」からデザインする

表現を諦めるな。

「表現したい」という欲求を止める必要はありません。


誰かの目から見てくだらないものであっても

評価されないようなものであっても

価値のないようなものであっても

なんの役に立たないようなものであっても


そして、表現はすればするほど磨かれます。


だから、とにかく気にせずに出して行き続けることが大切です。


「やり残し」って、自分がだしたいものを留めてしまうと生まれてくるものだと思う。


インスピレーションは、自分という存在を通した時に独自の形をとります。


それは、僕たちの中で培われてきた経験や世界観、感覚を通していくから。


そして、そこから生み出されたものたちは「自分という存在」を表しているものと同時に「人類共通でもっているなにか」を同時に内包していることでしょう。


人類は、これまで食べ物など生活に必要なものを自分の身体を動かさずに手に入る方法を編み出してきました。


僕は、生まれてから一度も、「今日のご飯をどこの山から採ってこようかな」といったことを考えたことはありません。


「生きる」という意味が「肉体の維持」であれのであれば、いつの間にか僕たちはそこに24時間のうちほとんど頭を使う必要なくできるようになってきています。


そして知恵や文化の伝承といった知識や経験のシェアについても、ほとんど自分の時間を割く必要はなくなりつつあります。


単純労働はどんどんコンピューターや機械が行えるようになるでしょう。



だから、いまこそ表現したいことをやってみよう。



f:id:horiuchiyasutaka:20190102223345p:plain




「生活を支えるために働く」なんてモチベーションは、「お金なんて関係なく働く」AIを前にしたら勝負になんてなりません。


そもそも、生活するために必要なお金なんてどんどん無料に近づいているし。



それで、どんどん進んでいくと、になりますよ。



体も、頭も、心も動かさなくてもよくなって、ぼんやりしても生存は維持することができる。


僕自身は「表現したい」という人たちをもっともっと応援していきたい。


それは、その人が内側の奥底からくるもの。


「形にできない」「表現できない」という理由はいくらでも見つかるかもしれません。


お金、時間、技術、環境、人脈……。


そのどれもが踏み出せない「言い訳」です。


同時に、やる気がある人たちと一緒にその「言い訳」をひとつひとつ潰していきます。


現在、「シンクロ倶楽部」のリニューアルを進めています。


思い切り「表現したい」という人たちが集まる場であり、応援していけるコミュニティへ舵を切ります。


「表現を諦めるな」


僕が、2019年に最初に伝えたいメッセージです。



新年、あけましておめでとうございます。

前作を超えた「成功している人は、どこの神社に行くのか?」はすごかった!

予想以上でした!



f:id:horiuchiyasutaka:20181228222055j:plain

 

books.rakuten.co.jp




1冊目の「成功している人は、なぜ神社にいくのか?」は27万部越え。


本屋さんには「神社本コーナー」ができるほどの大ブームになりました。


我が家の近所でも↓

f:id:horiuchiyasutaka:20181228223001j:plain




前作も相当内容が充実していましたし、大ヒットの次作ですので、それを深めたものになっているのかな?と思っていました。



とんでもない!


全く新しくコンセプトをつくり出したのかな?というぐらいの視点、いえ、むしろ個人的には前作を超えている程と感じました。


そして、これまでの魅力もしっかりとあります。神社を「システム」として紹介しているリュウ博士のスタンスが心地いいのです。


もしそれを情緒的に解説されたとすると、押し付けられた感覚になって抵抗を感じたかもしれません。


このシリーズで一貫して「こういう仕組みになっているんですよ」という紹介があり、それがさらに分かりやすいため、自分なりに納得して落とし込むことができるのです。


神様のことを上から教えてやるということでなく、あくまでも博士という立場で優しく解説してくれていると受け取ることができます。


そしてタイトルの「成功している人」という言葉の意味が今作では、より深みを増しています。


もしかしたら、「神社に成功なんて!?」と、抵抗感を感じる方がいるかも知れません。

この本を読むと、日本人がベースとして持っている「成功」がどのような概念だったのか、改めて確認できると思います。

これは遺伝子に組み込まれているからなのか、個人的にはしっくりきます。


「成功」すなわち「功を成す」とは、誰かの願いをかなえることです。
この本でこれからお伝えしていきますが、誰かの願いをかなえる「お役目」を果たしつづけた人こそ、「成功者」と呼ばれるのです。

 

僕たちは、神社という場を通じて、その祈り・願いを共有しているのです。僕たちは神社で「他者の祈り・願いをダウンロード」するのです。

正確には、「お祓い」された祈り・願いを、「無意識に」ダウンロードします。
「神さまの知恵」とは、「お祓い」された人々の祈り・願いなのです。

僕たちは、神社に参拝すると、「神さまの知恵」すなわち「他者の素直な祈り・願い」を、無意識に「知る」ことになります。
これが、神社参拝で結果が変わる原因、神社システムを活用する重要ポイントです。ぜひ心にとどめてください。


 
だから、成功するとは、ご先祖様を含めたこれまで多くの方が続けてきた祈りや願いを受け取り実現していくということです。


さらには、そのために必要な「先人の知恵」も含めて受け取ることが可能だとリュウ博士はお伝えしています。

ビジネス、政治、アート、伝統芸能、学問、武道などの「洗練された知恵」であり、お金、健康、恋愛、結婚などの「生活の知恵」です。

「古代」から受け継がれてきた「和の叡智」です。その目に見えない知恵こそ、「神さまの知恵」であり「神さまの宝」。


神さまの知恵をダウンロードした人が、「成功」します。

 

先人の知恵を託される場合、「私がつちかったこの技術、この知恵を、後世の適切な人に託したい!継承したい!」という誰かの願いが神社に奉納され、あなたがその「適切な人」であれば、その知恵がダウンロードされます。 

 

 

神社を通じて、自分一人の人生経験から思い描く成功やそのやり方だけではなく、より多くの方々が培ってきたものをダウンロードできるから、本来の自分の枠を超えたお役目を果たしていくことができる。

 

だから、功を成したからといって傲慢になる訳ではなく、ますます謙虚になっていく。


そして、自分が仮に願いを叶えずとも、他の方や後世に託すことも可能だとリュウ博士は説いています。


神社に見えない形で保管することで、「後の世代」へ受け継ぐこともできます。
時代を超えた「知恵の継承」が、神社という場で行なわれるわけですね。

 

だから、祈り願いを託すこともできる。委ねることもできる。


神社という仕組みを通じて、みんなの想いを時代を超えて実現していくことができるのです。


そんなわけで、「成功している人は、どこの神社に行くのか?」は前作よりもさらに神社という仕組みの素晴らしさと、どうやって付き合っていけばいいかより肚落ちさせることができました。


おすすめです。


books.rakuten.co.jp



books.rakuten.co.jp





「私」が幸せ以外に何の意味がある?

「人の目から見た幸せな私」が「自分の幸せ」になると疲れてきますよね。


誰も見てくれなくても、気に留めてくれなくても、幸せになることはできます。


家の中でお茶飲んでるとか、ぼーーっとしてるとか、なんでも良くて。

「幸せだな」って感じるだけなんですよね。


「あの人と比べて幸せだな」というのは、少し面倒で

シンプルに

「幸せだな」と感じることが大切なのです。

 

 

f:id:horiuchiyasutaka:20181220161655p:plain


 

ややこしいことに、いま幸せを感じているとしても、僕たちは不安になることがあるのです。

それは「あれ?もしかして  私がそうだと感じてるだけで  実は違うのかも」とほんのり浮かんだとき。


幸せなのに、疑うのね。

「もしかしたら  私が知らないだけで  本当の幸せって他にあるのかも」


とか、考え出してしまうのね。


貪欲に求めていくのは別に構わない。いま以上の幸せを求めることだって、自然なことです。


でも、“ いま ” 幸せを体験しているのであれば、
見逃してしまうのはどうなんでしょう?


それをちゃんと感じて「イエス」を出していかないと

どんどん正解を生み出す力は弱まってしまうんだよ?


「私がそうだと感じているだけで」何がいけないんだろう?

……自分の感覚に「イエス」を与える力が弱まっているなら、誰かの評価に振り回されていくだけです。


「私がそうだと感じているだけで」何がいけないんだろう?

……そこに理解とか、共感とか、仲間を求めようとすればするほど、「私の正解」から遠ざかっていくのです。


そうなると「人が集まってそうな場所にある正解」を求めてしまうようになってしまいます。



そこには「私」という存在はいるんだろうか?



f:id:horiuchiyasutaka:20181220162828p:plain



「私の幸せ」にいると、「いいな」と感じる人は必ず現れます。

不幸そうにしている人よりも、幸せそうにしている人に、僕たちは惹かれるからです。


だから幸せでいれば、共感も仲間も自然と集まってきます。


そして、自分の幸せを中心とした
場所であるならば、そこには「私」はいます。



当然、「私の幸せ」もそこにはあります。


だから、自分の感覚で「これでいい」と感じる場所にいよう。

正解を生み出す力を高めよう。

「私がそうだと感じているだけで」十分なんだと、イエスを与えてあげよう。

誰よりも真っ先に、自分で自分の感覚を承認していこう。


「この程度で」幸せになってもいいし
「こんな状況で」幸せになってもいい。

他の人だったら「こんなこと」で納得しない、満足しない。
ここで止まってしまったら置いていかれることになるかもしれない。

……と不安を感じていても、幸せになっていい。



その上で「可能性」だって開けるんだよ。




f:id:horiuchiyasutaka:20181220163602p:plain



「可能性」は、いつだって未知なる場所にあるのです。

「私の感覚」が望んだときには、素直に飛び込んでみましょう。


この場合、「いまの幸せ」よりも「未知なる予感」に僕たちの感覚は惹かれています。


それってとても怖いかもしれない。

どんなことになるか分からないから。

何が起きるか分からないから。


そしてそんなときにも、ついつい「誰かの目」が欲しくなってしまうんだよね。

「大丈夫だよ」「正解だよ」って言葉が欲しくなるんだよね。


でもね「誰かの目」って、
必ず僕たちの力を弱めてしまうんだ。


それは、「他人の目の範囲」に自分が制限されてしまうから。

ここでも、自分の感覚に「イエス」を出せるかどうかが大切です。


行こうとしている先は、他人にとってはどうでもいいことかも知れない。

何の評価もしてくれないかも知れない。仲間もいないかも知れない。


でも、「私」は確実にそこにいます。


なぜならば、「私」が求めている場所だから。

多くの誰かが「そこは素敵だよ」って言ってくれそうな場所でなく、「私がそうだと感じる」場所だから。


そして、勇気を出して踏み出した先で得られたものは「私のもの」になる。

もし、そこに幸せがあったならば、「私の幸せ」になる。


そうしたら、そこでちゃんと「幸せ」にいればいい。

いずれ仲間は集まってくる。


今いる場所でも、これから向かう先にある場所でも、「私」がいるかどうかが大切です。


順番間違っちゃいけないよ。


「多くの人が集まっている場所」でなくて、「私がいる場所」に全部あるんだよ。


まずは私。


「人の目」なんて、放り出してしまいましょう!


それだけで「幸せ」ってぐっとシンプルになりますよ。