「人の目から見た幸せな私」が「自分の幸せ」になると疲れてきますよね。
誰も見てくれなくても、気に留めてくれなくても、幸せになることはできます。
家の中でお茶飲んでるとか、ぼーーっとしてるとか、なんでも良くて。
「幸せだな」って感じるだけなんですよね。
「あの人と比べて幸せだな」というのは、少し面倒で
シンプルに
「幸せだな」と感じることが大切なのです。
ややこしいことに、いま幸せを感じているとしても、僕たちは不安になることがあるのです。
それは「あれ?もしかして 私がそうだと感じてるだけで 実は違うのかも」とほんのり浮かんだとき。
幸せなのに、疑うのね。
「もしかしたら 私が知らないだけで 本当の幸せって他にあるのかも」
とか、考え出してしまうのね。
貪欲に求めていくのは別に構わない。いま以上の幸せを求めることだって、自然なことです。
でも、“ いま ” 幸せを体験しているのであれば、
見逃してしまうのはどうなんでしょう?
それをちゃんと感じて「イエス」を出していかないと
どんどん正解を生み出す力は弱まってしまうんだよ?
「私がそうだと感じているだけで」何がいけないんだろう?
……自分の感覚に「イエス」を与える力が弱まっているなら、誰かの評価に振り回されていくだけです。
「私がそうだと感じているだけで」何がいけないんだろう?
……そこに理解とか、共感とか、仲間を求めようとすればするほど、「私の正解」から遠ざかっていくのです。
そうなると「人が集まってそうな場所にある正解」を求めてしまうようになってしまいます。
そこには「私」という存在はいるんだろうか?
「私の幸せ」にいると、「いいな」と感じる人は必ず現れます。
不幸そうにしている人よりも、幸せそうにしている人に、僕たちは惹かれるからです。
だから幸せでいれば、共感も仲間も自然と集まってきます。
そして、自分の幸せを中心とした
場所であるならば、そこには「私」はいます。
当然、「私の幸せ」もそこにはあります。
だから、自分の感覚で「これでいい」と感じる場所にいよう。
正解を生み出す力を高めよう。
「私がそうだと感じているだけで」十分なんだと、イエスを与えてあげよう。
誰よりも真っ先に、自分で自分の感覚を承認していこう。
「この程度で」幸せになってもいいし
「こんな状況で」幸せになってもいい。
他の人だったら「こんなこと」で納得しない、満足しない。
ここで止まってしまったら置いていかれることになるかもしれない。
……と不安を感じていても、幸せになっていい。
その上で「可能性」だって開けるんだよ。
「可能性」は、いつだって未知なる場所にあるのです。
「私の感覚」が望んだときには、素直に飛び込んでみましょう。
この場合、「いまの幸せ」よりも「未知なる予感」に僕たちの感覚は惹かれています。
それってとても怖いかもしれない。
どんなことになるか分からないから。
何が起きるか分からないから。
そしてそんなときにも、ついつい「誰かの目」が欲しくなってしまうんだよね。
「大丈夫だよ」「正解だよ」って言葉が欲しくなるんだよね。
でもね「誰かの目」って、
必ず僕たちの力を弱めてしまうんだ。
それは、「他人の目の範囲」に自分が制限されてしまうから。
ここでも、自分の感覚に「イエス」を出せるかどうかが大切です。
行こうとしている先は、他人にとってはどうでもいいことかも知れない。
何の評価もしてくれないかも知れない。仲間もいないかも知れない。
でも、「私」は確実にそこにいます。
なぜならば、「私」が求めている場所だから。
多くの誰かが「そこは素敵だよ」って言ってくれそうな場所でなく、「私がそうだと感じる」場所だから。
そして、勇気を出して踏み出した先で得られたものは「私のもの」になる。
もし、そこに幸せがあったならば、「私の幸せ」になる。
そうしたら、そこでちゃんと「幸せ」にいればいい。
いずれ仲間は集まってくる。
今いる場所でも、これから向かう先にある場所でも、「私」がいるかどうかが大切です。
順番間違っちゃいけないよ。
「多くの人が集まっている場所」でなくて、「私がいる場所」に全部あるんだよ。
まずは私。
「人の目」なんて、放り出してしまいましょう!
それだけで「幸せ」ってぐっとシンプルになりますよ。